走るのは遅かった。運動自体が好きじゃなかった。どちらかと言うと引きこもりがちなインドア
系の保育園児、幼稚園児だった。川遊びなど、水は物凄く苦手だった。
小学校2年生の6月から隣町(橋本市)のスイミングスクールに通い始める。別に好きで通い
始めたのではない。小学校の水泳の授業であまりにも泳げなさすぎるから、親に放り込まれた のである。「近所の友達に会わないように」との配慮で、わざわざ隣町にまで通うことになったと か。今考えると、物凄く嬉しい配慮である。
最終的には、小学校6年生までに4泳法を全てマスターした。しかし、走るのも遅ければ、泳
ぐのも遅い。個人メドレーのクラスに入ってからは、レベルの高さについていけなくなった。試験 後のコーチのコメントには「最後のクロールでは完全にバテてましたね」。結局、親に辞めるこ とを相談する。入会当初の目的は果たした、として辞めることを了承してもらう。
球技は好きだが下手だった。特に野球は真剣に少年野球チームに入ろうか悩んだ次第であ
る。しかし、親に反対された。結果として、常に草野球での登場のみであった。
サッカーも好きだった。でも、上達しなかった。「取り合いジャンケン」では、最後の「要るか要
らんか」の選択群に入っていた。
キックベースでは主にフォワード。4年生あたりから知らぬ間にフォワードに定着していた。
一方で、小学校6年生のときに、初めて陸上競技の試合に出る。種目は走高跳。元々はソフ
トボール投に出場したかったが、すでに飽和状態だったため、走高跳に回された。そして惜しく も入賞を逃がす。
このときは跳ぶのが純粋に楽しかった。しかし、「野球より面白いものはない」という先入観か
ら、徐々にこの楽しさを忘れ、やがて小学校の卒業を迎えることになる・・・
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